大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

秋田地方裁判所 昭和34年(行)5号 判決 1960年9月08日

原告 小林多代治 外一〇名

被告 秋田県教育委員会

主文

本件訴は、いずれもこれを却下する。

訴訟費用は原告等の連帯負担とする。

事実

第一原告等の主張

原告等訴訟代理人は、「原告等が、原告等所属学校教諭等につき、秋田県教育委員会規則第六号及びこれに基ずく評定書に定める勤務評定をなす義務を有しないことを確認する。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、被告の本案前の抗弁に対する反駁、請求原因として、別紙記載のとおり述べた。

第二被告の主張

被告訴訟代理人は、本案前に、「本件訴は、いずれもこれを却下する。訴訟費用は原告等の負担とする。」との判決を、本案につき、「原告等の請求は、いずれもこれを棄却する。訴訟費用は原告等の負担とする。」との判決を求め、本案前の抗弁、請求原因に対する答弁として、別紙記載のとおり述べた。

理由

一  本訴の原告等は、いずれも、地方教育行政の組織及び運営に関する法律(以下、地方教育行政法という。)所定の教育機関である秋田県市町村立中小学校の、校長たる職員の地位にあるものである。

しかして、校長である原告等は、いずれも、

(一)  一面において、「校務を掌り、所属職員を監督する。」職務権限を有するとともに、(学校教育法第二十八条第三項、第四十条)

(二)  他面において、その服務については、当該学校を所管する市町村教育委員会の監督に服し、その職務を遂行するに当つては、右委員会その他職務上の上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない(地方教育行政法第四十三条第一、二項)

ものとされている。

二  本訴は、いずれも、かかる地位にある原告等が、当該学校所属の教諭及び免許状を有する講師(以下、教諭等という。なお、右教諭等は、地方教育行政法にいわゆる県費負担教員である。)について、被告秋田県教育委員会規則第六号「秋田県市町村立学校職員の勤務成績の評定に関する規則」(以下、本件規則という。)並びに別紙「教育長の定める勤務評定書の様式」第二表(但し、(2)出勤の状況のらんを除く。以下、本件様式という。)による勤務成績評定の義務のないことの確認を求めるものであるが(請求原因二参照)

右義務は、

(一)  県費負担教員の勤務成績の評定が、地方教育行政法により、「県教育委員会の計画の下に、市町村教育委員会が行うものとする。」とされ(第四十六条)

(二)  右規定に基ずき、被告県教育委員会が、本件規則をもつて、秋田県市町村立中小学校所属の教諭等の勤務成績の評定につき、当該中小学校の校長を第一次の評定者、市町村教育長を右評定の調整者と定めたほか(第六条第一項)、勤務評定の実施の範囲(第二条)、勤務評定の種類及び実施の時期(第三条)等について規定を設け、勤務評定書の様式その他勤務評定の実施に必要な事項の決定は、これを県教育長に委任し(第六条第二項、附則第一項)、右委任に基ずき県教育長において、教諭等につき本件様式を定め、

(三)  原告等所属の学校を所管する市町村教育委員会が、地方教育行政法第四十六条に従い、本件規則並びに様式に基ずき勤務成績の評定を実施するため、原告等校長に対し当該学校所属の教諭等につき、本件様式による勤務評定書(以下本件勤務評定書という。)を提出すべく命じ

たことによつて発生したものである。

原告等は、本件規則によると、「市町村教育委員会が、勤務評定を実施することになれば、特段の職務命令が発せられなくても、定期に評定をなすべき義務が具体的に発生していることになる。時宜に応じて評定書の提出命令が発せられるとしても、規則等の文理解釈からすれば、これは評定義務の発生要件ではない。」(被告の本案前の抗弁に対する反駁二、(一))と主張し、本件勤務評定書の提出義務が、市町村教育委員会の命令をまたないで、本件規則により当然に発生するかのようにいつているのは、地方教育行政法第四十六条の規定に照らし明らかに誤りである。(本件勤務評定書の提出義務が、市町村教育委員会の命令をまつてはじめて発生するものであることは、前掲法条により疑を容れないところである。)原告等の表現をもつてするならば「市町村教育委員会が勤務評定を実施する」事実(前掲)、「市町村教育委員会が右規則(本件規則)を実施した」事実(請求原因一)があり、右事実が、本件勤務評定書を提出すべく命じたものと解されることによつてはじめて、その提出義務が発生するのである。

本訴の趣旨が、市町村教育委員会が、「本件規則を実施した」(原告等の表現による。)事実のうちに、本件勤務評定書を提出すべき旨の下命行為があるものと解し、右下命行為によつて課せられた提出義務を対象とするのでなく、右「実施」は、単に本訴を提起するに至つた契機にすぎず、本訴は、本件規則により、直接本件勤務評定書提出義務が発生したものとして、これを訴訟の対象とする趣旨であるとすれば、前段において説示したところから明らかなとおり、本訴は、すでにこの点において、却下を免れない。

三、しかして原告等が、校長として、校務を掌り、所属教諭等を監督すべき職務権限を有する以上、所属教諭等につき勤務成績の評定をすることは、原告等の校長としての職務に関係がないものということはできない(少くとも、関係のないことが一見明白であるとはいい難い。)したがつて、原告等校長に対し、所管の市町村教育委員会が本件勤務評定書を提出すべく命じたのは、地方教育行政法第四十三条第二項にいわゆる「職務上の命令」に該当するものといわなければならない。

原告等は、「本件は、職務命令そのものを直接対象とするものではない。それに準ずる客観的に違法な行政行為の効果として外形上職務遂行の義務が課せられたので、前陳の如き保障請求権者たる公務員の地位において、被告に対しこれの消極的確認を求めるものである。」(被告の本案前の抗弁に対する反駁一、(三))と主張し、本訴が、職務命令によつて課せられた義務を対象とするものでないかのごとくいうのであるが、右主張は採用できない。かりに、右主張の趣旨が、前記二の末段において述べたごときものであるとすれば、本訴は、すでにその点において却下を免れえないこと、同所に指摘したとおりである。

四  以上のとおりであるから、本訴は、原告等が、秋田県市町村立中小学校の校長としての立場において、所管の市町村教育委員会から職務命令によつて所属教諭等につき本件勤務評定書を提出すべく命ぜられたのに対し、その提出義務がないとして、職務上の義務の存否を争うものであり、原告等の個人としての権利義務、いわゆる権利主体としての権利義務にはなんらかかわりがないものというべきである。したがつて本訴は、裁判所法第三条一項にいわゆる「法律上の争訟」に該当しないことが明らかである。

しかして、他に、本件につき出訴を許容する法律上の規定は存在しない。

五  以上説示したとおりであつて、本訴は、不適法なことが明らかであるから、進んで他の点について判断するまでもなく、これを却下すべきである。

六  なお附言すれば、職務命令といえども、命令の内容の違法であることが一見明白な場合であるとか、あるいは事実上不能なことを命ずる場合には、これに服従する義務のないことも、また一般に公認された法理である。本件において原告等の主張するところが、右のごとき趣旨のものとすれば、原告等の権利主体としての権利義務に影響を及ぼしうるのであるから、本件訴を不適法として却下することなく、後に説示するとおり、原告等の主張事実が失当であることを理由として原告等の請求を棄却すべきである。

すなわち原告等は、前述のとおり、本件勤務評定書の提出義務が、職務命令によつて課せられたものであることを、明らかには主張しようとせず、本件規則並びに様式の違憲違法による無効(請求原因三、(一))や本件規則並びに様式に基ずく勤務評定をなすにつき事実上並びに法律上の障碍事由のあること(請求原因三、(二)の1及び2)は主張しても、これを右職務命令に関連させて明確に主張することはしない。まして、右職務命令の内容の違法なことが一見明白であるとの明確な主張はない。しかしながら、原告等が本件規則並びに様式について述べるところは、結局右職務命令について主張するに帰するものであり、かつその主張には、右命令の違法であることが一見明白であるという趣旨をも含むものとしても、原告等の主張は、すべて理由がない。詳言すれば、

(一)  本件職務命令に、かりに、請求原因三、(一)において原告等の主張するような違憲違法の事由が存在するとしても、少くとも、それらが一見明白であるとはいい難い。

(二)  また、原告等が請求原因三、(二)、2において主張するところは名を「法律上の不能」にかりるけれども、いわゆる「法律上の不能」というに当らないものであり、その実質は、命令の内容が違法であることを主張するにすぎない。しかして、この点については、前記(一)に述べたところを援用する。

(三)  また本件勤務評定書の提出命令が、事実上不能なことを命ずるものであるということはできない。原告等が請求原因三、(二)、1において述べるところもまた理由がない。

七  よつて訴訟費用の負担について、民事訴訟法第八十九条第九十三条第一項但書を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 三浦克己 片桐英才 杉島広利)

第一原告等の主張

(被告の本案前の抗弁に対する反駁)

一 被告は「原告等はいずれも被告県教委より一の教育行政機関たる校長として任命せられたものである」から法律に特別の規定がなければ訴訟を提起することはできず、本件訴訟は不適法であると主張する。

そこで、行政機関の概念および機関争訟の意義を吟味し、本件が機関争訟に該当せず、かかる概念を容れる余地の存しないことについて、つぎに理由を開陳する。

(一) 行政組織法における機関及び権限の意義

わが国の行政法がアメリカ行政法の制度的観念をとり入れたのにも拘らず、なおドイツ行政法の伝統的理論にならつた公法学の学説、先例が存し、行政法の理論の領域に幾多の混乱が存することは、公知の事実である。本件の前記争点はまさにかかる領域にまたがる問題である。

行政組織法の定義について、標準的な解説は、「国、地方公共団体その他の公共団体等の行政主体の組織に関する一切の法を総称する。すなわち、国の機関の設置、廃止、名称、構成、権限とか、地方公共団体その他の公共団体そのものの設置、廃止、権能またはその機関の設置、廃止、名称、構成、権限とか、国の組織と地方公共団体その他の公共団体の組織との関係とかに関する法ならびに、これらの機関組織を構成する一切の人的要素(公務員)及び物的要素(公物)に関する法がこの中に含まれる」と述べている(田中二郎、行政法中巻一頁)。これは行政作用法に対する関係に於て成立した広義の行政組織法の観念である。

しかし、一般に用いられている狭義の行政組織法の観念は、これよりはるかに狭く、まず行政組織の物的要素たる公物、営造物に関する部分は除かれ、また人的要素たる公務員に関する部分も除かれる。これは実際上の理由と同時に理論上の理由にも基づく。すなわち、公物、営造物は、行政組織の物的要素であるが、その中心的問題は、公物、営造物の利用関係であり、また公務員は行政組織の人的要素であるが、その反面、機関と人との分離が近代的行政機構の基礎的原則をなし、公務員法はそれ自身別個の分離を形成しているからである。(佐藤功 行政組織法、三頁以下)かくして、狭義における行政組織法は国または公共団体の組織機構に関する法であるといえる。このような行政組織法における行政機関の概念も、従来の行政官庁の観念ではなく、職及びその集合体として機能の側面から考えられている。(佐藤、前掲三六頁)。

そして、行政機関の作用ないし行為の範囲の限界を劃定するものが、すなわち「所掌事務と権限」である。学校は教育機関であり、営造物であるから、狭義の行政組織に属しないが、広義の行政組織法に於て学校職員たる校長、教諭が教育機関の補助的機関であること、またかかる機関としての「所掌事務と権限」の存在も考えられる。

しかし、注意すべきことは、かかる機関権限の観念は、一定の方法、効果に於て機関の行政事務ないし公的役務に参与する側面(身分の関係でなく)に於て観察する場合に用いられる行政作用及び行政組織上の観念であることである。したがつて、機関と権限の問題は、行政組織法上は行政機関相互の間の法律関係である(行政作用法上の行政容体との関係はここでは措く。)。そこで下級機関の間に権限争議がある場合には、上級機関はその監督権に基いて争議を決定する。これは、下級機関の所掌事務の範囲は、上級機関のそれが配分されたものであり、その分配が不明確であることの結果として生ずする争議は、上級機関によつて、裁定されることを意味する。機関争議はこのように組織法上の権限分配の争であるから、ほんらいその法律関係の帰属者は同一の国又は公共団体であつて、その紛争は同一の権利主体間の内部の機関相互の関係にすぎず、異る権利主体間の具体的な権利義務その他の法律関係の争は存在しないから、具体的判断作用を本質とする司法権の限界外にあるとされているわけである。

そうだとすると、本件は果してかかる行政組織法上の領域ないしは組織内部での機関相互の作用法の領域に専ら属する問題であるか否かが問われなければならない。

(二) 公務員法における職務上の義務について

機関と人との分離は近代行政機構の基礎的原則である。地方公務員法はこの原則を前提として、一般職の地方公務員の身分取扱に関して規定している基本法である。地方公務員とその使用者である地方公共団体との関係は、基本的には両者の意思の合致(契約)によつて成立したもので、権力主体と一個の権利主体との間の勤務関係である。この勤務関係を規律するものは、身分法たる公務員法である。そしてこの関係における地方公務員の権利、義務の基本がその職務にあることはいうまでもない。換言すると職務上の権利、義務は、勤務関係身分法関係にのみ成立するものであることを理解する必要がある。

ところで、憲法は、国民主権の原則を採用したものであるが、この原則によると、国民のすべてが平等に施政に参加する権利能力を有し、自らの間から代表者をえらんで、代表者に公務を行わせ、あるいは自から代表者ないし国民全体の奉仕者となつて公務を行う権利をもつているということができる。

この基本的権利の上に立つて、公務員は職務を行う権利を保有しているのである。同時に、公務員の義務の基本は、国民全体に奉仕することにあり、またそれ故に、職務を執行する義務は、合憲的合法的な範囲に限られるものである。かかる基本的権利と義務は、根本的には、公務員が法定の事由によるのでなければ、その意に反して、降任、休職又は免職されることはないという身分の保障の形で認められているのである(国家公務員法七五条、地方公務員法二七条)。したがつて、公務員の職務上の義務が合憲適法な範囲に限られるということは、公務の公正を保障する公の権利であると共に、当該公務員個人の私の利益を保障する権利にも属する。このことは、地方公務員にも当然準用せらるべき国家公務員法第一〇五条が、職員の職務の範囲として「職員は、職員としては、法律、命令、規則又は指令による職務を担当する以外の義務を負わない」と定め、いわゆる官吏の無定量の勤務義務を排除したことに照らしても首肯できるところであろう。のみならず、公務員の身分上の権利の享有を保障するために、地方公務員法は、勤務条件に関する行政措置の要求権、不利益処分審査請求権、公務傷病に対する補償請求権を認めたことも重要な関係を有している。これは何れも地方公務員の身分法上の保障請求権ということができるからである。(鵜飼信成公務員法九〇頁)。

この権利関係の中で、地方公務員法第三二条(国公法九八条一項)は、職員の「法令に従う義務」と「上司の職務上の命令に従う義務」とを並列的に認めているため、これらの義務の間に抵触があつた場合、この抵触の存否、すなわち、行政上の命令の違法性が問題となるのである。これについて、違法な職務命令の形式的審査権および明白な違法性の実質的審査権が公務員に存することは通説とみてよい。国の人事院の解釈例記によると、「職員は、職務命令か客観的に違法であると認められる場合を除き、これを拒否することはできないものと解する。但し、職務命令について不服がある場合には、上司に意見を申述べることができる外、法第八六条から八八条までの規定により、人事院に行政措置の要求をすることができる」(昭和二五・一・三〇世話甲一九号人事院公平局世話課長)として、不当な職務命令に基く職務上の義務の拘束についても、公務員の保障請求権の対象となることを認めていることを注意しておきたい。

(三) 本件における確認の利益について

前述の観点から本件の訴訟要件の存否を考察すると、原告等が小中学校長の職にあるということだけでは(校長は一面に於て機関であるとしても)直ちに機関争議となるものではない。何故なら、機関争議は行政組織法上の機関の権限の分配に関する紛争であるが、機関争議であるか否かは、原告等が現実に保有する職制上の地位によつて直ちに決定せられるのではなくて、請求の実体が原告等の身分上の地位に基くか否かによつて決めらるべきだからである。このことは、原告等が校長の職を意に反して免ぜられた場合に、公務員個人の身分上の地位に基き、校長たる職制上の地位の存続を訴訟上争いうることを想起すれば明白である。

のみならず、本件は職務命令そのものを直接対象とするものではない。それに準ずる客観的に違法な行政行為の効果として、外形上職務遂行の義務が課せられたので、前陳の如き保障請求権者たる公務員の地位において、被告に対しこれらの消極的確認を求めるものである。

更に言えば、補助機関として、行政組織法上の権限の分配に関する疑義の確定を求めるものではなく、校長の職を有する教育公務員として身分法上の職務遂行義務の不存在確認を求めるものであつて、請求の本質を異にするものである。

このように見てくると、本件の訴の適否は、結局民事訴訟法一般の理論に従い、争いの成熟の程度、消極的確認を求める法律上の利益を有するか否かの問題に帰結するのである。

本件の規則及び実施要領が客観的に違法であることは、これまで請求原因に於て屡々陳述したところである。これがために右勤務評定の実施をめぐつて被告県教育委員会と秋田県における教職員の団体である秋田県教職員組合(原告も所属する)との間に紛争が存続していることは新聞紙等の報導により公知の事実である。

昭和三十三年九月十五日以後秋田県教職員組合は日本教職員組合の指令に基き、数度に亘つて抗議行動を行い、組合員である職員が一致して、地方公務員法第四六条の定めるところに従い、県人事委員会に対し前記規則等を取消すべき措置の要求をなしたが、右人事委員会は勤務評定制度は地公法四六条に定める「勤務条件」ではないとの見解のもとに要求を却下し、事態の解決を回避している。

また、評定義務の履行を事実上拒否したために即時懲戒免職処分をうけた事例は愛媛、東京、高知、広島各県に続出している。

これらの事情からすれば、被告が文部省等の指示に従い、勤務評定制度の強行的実施を企図していることは容易に推認できるところであり、原告等に於て仮にこの職務の履行を拒否するなどは懲戒処分その他の不利益を受けることは必至である。原告は被告の権力の事実上の圧力に強いられて、止むなく、その意に反して評定事務を行つてきたが、原告等の善意を以てするもその不合理性は如何ともし難く、学校運営の集団秩序に好ましからざる影響を及しつつある事実を否定できない。その実害は、直ちに形の上で現実化するものではなくても、教師の精神の内部、自主性そのものに影響を及しつつあることが重大である。

教育はほんらい学問的であり、倫理的なものである。したがつて、思想、良心、学問の自由などの基本的人権は、教育の中でこそ特別に尊重されなければならない。それ故に教育内容と教育方法とは内的事項であつて、行政権は教育者のこの領域に介入してはならないとするのが、近代社会の根本原理からする必然の要請であり、民主主義教育の根本思想である。それは、教育基本法第一〇条の原則でありまた教育者の良心でもある。

したがつて、教師の内奥の価値観にまで法律あるいは人事行政の名によつて踏み込む本件の勤務評定方式の実施に対して、原告自らが手を籍す如きは、教育者として自らを辱しめる行為であり、原告の良心の自由は一顧にも値しないものの如く、現実に蹂りんされ、侵害されている。このような事態は、国民教育の民主々義的展望をもつて教育基本法の体制が確立した歴史的時点に於て予想され得たことであろうか。教育者の思想良心の確定のないところに国民教育の存在はないのである。

以上の次第であるから、原告等と被告との間には、裁判によつて解決するに足る程度に、法律的紛争が現存しているものと言わなければならない。

(四) なお、校長は教育行政機関ではないことについてつぎのとおり附陳する。

1 校長はほんらい行政機関ではない。

学校は、地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地方教育行政法)によれば教育機関であり(同法三〇条)、地方公共団体の設置する営造物である(地方自治法第二条三項五号)。

校長は、右営造物たる学校の職員であるにすぎない。校長の職務として、「校務を掌り、所属職員を監督する」(学校教育法二八条三項)とされているが、これは、右営造物における校長の職分を定めたものであつて、教育行政機関たる権限を定めたものではない。

教育行政機関としては行政組織法上は、国に文部大臣、地方公共団体に都道府県教育委員会および市町村(特別区)教育委員会があるのみである。

しかして、教育行政は、教育の目的達成のための諸条件の整備確立を目的とする福祉的行政作用を本体とし、学校は行政権の管理に属するとはいえ、教育という公共的役務を行う営造物であるから、右教育行政機関と営造物の職務たる校長との関係は、一般行政機関の統括権執行の系統関係とは法的性質を異にする。結局、校長は行政権の営造物管理権に服するにすぎないものである。以上の意味に於いても、校長は、教育行政の下級行政機関ではないものと解する。

2 殊に本件に於いては、勤務評定の実施機関は、地方教育委員会であつて(被告はこの点主張を異にするが)、校長でないことは、法の明文上あきらかなところであり(地方教育行政法四六条)校長が勤務評定実施の行政機関でないことは疑いをいれる余地がない(本件はまた地方教育行政法二六条二項により教育長の権限を学校長に委任または代理を命じた場合にも該当しない)。

3 学校長は、法令に特別の定めがある場合に営造物たる学校の機関として公法上の行政機関に準ずる地位をその職務執行に限つて保有する場合が考えられないではないが、然し、このことは、本件の訴訟要件の成否にとつて関係のないことがらである。

(五) 本件事案は、仮に機関争議に属するとしても、いわゆる機関訴訟として司法裁判所の事後審査をうけ得る場合に該当する。

1 機関争議は、国又は公共団体の機関の間におけるその主管権限の範囲又はその権限行使に関する争を言うものとされ、これは国民の個人的な権利義務に関する紛争ではないから法律上の争訟の性質を有せず、その解決については、法律に特別の定めのない限り、裁判所の権限に属しないというのが通説、判例である(雄川一郎法律学全集「行政訴訟法」一一七頁)。

ところで、組織法上ではなく、行政法の一般理論から広義の「機関」概念を求めるときは、上下級の監督関係に立ち、何らかの公務の執行に関与する公務員の職務上の地位は、これを機関のなかに含ましめられる場合がある。この立場に立つと、校長は、営造物たる行政組織(学校)の機関公務員であるということになる。被告の主張の理論的基礎は必らずしも明らかでないが、おそらくはこのような見地に立つものと思われる。しかしながら、右の見地に立つも、これによつて本件訴訟要件を直ちに律しうるものではないのである。

2 すなわち、機関「争議」が通常は訴訟をもつて争うべきものでないとされる所以のものは、この種の訴訟は、行政機関内部で監督作用に委ねらるべきものとの観念に基くものである。時に、これを解決すべき適当な機関の存しない場合や、特に、公正な第三者の判断を求めることを適当とする場合は、法律の定めるところにより裁判所に出訴しうるものとされる場合がある。学説はこれを機関「訴訟」と呼んでいる(雄川前掲一一七頁)。

ところで、近代行政における法治主義の原理に立つて考察すると、前叙の如き機関訴訟の許容さるべき実質的要件の存する場合で、しかも明らかに立法の欠如と見られ得る場合には実定法上特別の定めがなくても、裁判所は機関訴訟の成立を認め、これが司法的審査を行うべきものと考えるのが至当である。

3 本件事案は、これを解決すべき適当な上級機関が存しないこと法律上明らかなところであり、かつ裁判所の公正な判断を求めることを適当とする場合に該当するものである。

その理由はつぎのとおりである。

(1) 教育法上の特例的法理の存在及び根拠

教育における教育の自主性、すなわち教育権(教育の自由)は、基本的には学問の自由(憲法二三条、教育基本法二条)および行政権からの独立(同基本法一〇条一項)から帰結する国民としての教育者の基本的人権である。

教育委員会は教育について計画を定める権限をもつが(地方教育行政法三三条)教育そのものについて、校長及び職員に対し、助言、指導を原則とし、「命令及び監督をしてはならない」(旧教育委員会法五二条の四)ものである。学校における校長と教員の関係も同様である。校長の掌る校務は教育内容に関係のない学校行政事項に限られ、学校全体の教育運営に関しては、実務上教職員会議を主宰し、合議の結果に基いて計画を定め、これが実施は教員の責任に委ねているのである。その監督権の範囲は学校行政秩序の維持のために限られ、教育内容にまで関与することはできないのである。

この法理は、憲法(前文、二三条)、教育基本法(前文、一条、二条、十条一、二項、六条)学校教育法(二八条)の要求する教育行政秩序に内在する基本原則ということができるのである。

被告の主張する本案前の抗弁が、仮に一般行政職については該当するとしても教育公務員については、実定法上も特にその職務と責任の特殊性に基いて特例が認めれていることを考慮すべきであると思料する。すなわち、地方公務員法第五七条、国家公務員法付則一三条に基き教育公務員特例法が制定されている。

同法は教育に従事する教育公務員の職務と責任の特殊性に基き任免、分限、懲戒および研修について特例を定めた。例えば、大学における任用、昇任、降任、免職および服務等(同法四条以下)に関し大学の自治を大巾に認め、勤務成績の評定についても、自治機関たる大学管理機関が定める基準により制定実施されるものとする(同法一二条、但し未だ各官公立大学では実施されてはいない)。

大学以外の学校教員の任用については、競争試験を廃して免許状制度を採用し、能力ある教員を採用する方法を採り、教員の結核疾患による休職期間を二年とし、場合によつては三年に延長しうることにして、教員自身を保証すると同時に身体の未成熟な被教育者への影響を考慮している。また教員の研修については特別な考慮が払われている。

同法第四条以下第一二条までの大学教員に関する規定は、学問の自由、大学の自治を重んじた規定であるが、大学以外の他の諸学校についても、その精神は同一でなければならぬことは、教育基本法の存在によるも明らかである。

憲法二三条(学問の自由)二六条(国民教育の保障)および教育基本法のほか教育公務員特例法、学校教育法、地方教育行政法等の存在は、教育の重要性とその一般行政事務に対する特殊性を国家の実定法秩序(法体糸)として肯定し、強調しているものと言わなければならない。教育は、現実としての人格を理想としての人格へと止揚する作用である点に於いて、国民や住民の生活の保護や便益をはかることを目的とする一般行政事務と異なつていることはあらためて指摘するまでもない(コンメンタール、教育関係法、四〇八頁以下参照)。従つて、教育に従事する職員の身分的法律関係については現行法の特例のほか法制上未整備の点は前述の趣旨に於て解釈理論によつてこれを補充すべきものと考える(教育基本法前文、六条二項参照)。

右の次第であるから、行政争訟の部面に於ても一般行政職を前提した機関争訟に関する従来の公法上の見解とは異なる考え方をとる余地が充分にあり、むしろ、その特例を認めることは、司法裁判所の義務であると思料する(基本法前文、憲法七六条、九九条、裁判所法三条一項、憲法三二条)。

(2) 現行教育法制の不備

教育行政に関する現行の法制は(学校教育法、教育公務員特例法、地方教育行政法その他)、学長、教諭等教育公務員の教育権を十分に保障する方向で整備されていない。このことは、教育基本法の精神が教育行政法制の中に貫徹されていないことを示しているのである。この意味では、教育法制は未だ、整備されない過渡的状態にあるといわなければならない。(例えば、現実に主要な機能を営んでいる学校の職員会議は、法制上無視されている。)

そこで、憲法、教育基本法の精神から帰結する教育権ないし教員の職務の独立というものが、教育行政機構のなかに具体的な保障制度を欠如している事情のもとに於いては、教育権の侵害の有無に関し、教育委員会学校職員との間に争を生じた場合、当事者は、裁判所によつて公正な審査をうけ、紛争を解決して貰う相当の理由があるものと言わなければならない。教育基本法前文に宣明されているように、教育が現行憲法の理念の実現に向つての日本国民の責務にとつて、重大なかかわりをもつことを顧ればなおさらである。

(3) 原告等は、教育者としての永い経験に基く確信として、本件の勤務評定は、教師の自主性を侵害し、学校運営に於ける創意に充ちた集団的秩序を徒らに停滞破滅に導くことをうれうるものである。

したがつて、教育者として、基本法の精神への忠義的良心と評定者としての職責の矛盾に立たされているものである。原告等が職務を執行すれば「良心の自由」を侵害されることになり、原告等に於いて仮にこの職務を放棄するならば懲戒その他不利益な行政処分をうけるであろうことは、地方公務員法二九条、三二条の定めや愛媛県における勤務評定に関する紛争の結末後の事情からみて、必至であると考えるので、本訴によつて、司法的判断を求め、これに対する決断の途を開くほかに適当な方法は見出し難いと信じた次第である。

(六) 裁判権の限界をめぐる若干の問題について

被告の本案前の抗弁に対する反駁は以上のとおりであるが、念のため若干の訴訟上の問題点について附陳しておきたい。

司法権にはその本質に基く限界を否定し得ないが、一部には、三権分立主義に基く限界をことさらに強調する見解が行われている。このような見解から投ぜられている問題点のうち特に本件に関係があると思われるのは、つぎのような諸点であろう。

1 公法上の義務確認訴訟について

行政庁が或る行政行為をなすべき義務又はなすべからざる義務の確定を目的とする場合や将来行政行為によつて形成さるべき法律関係の事前の確定を目的とする場合を学説は公法上の義務確認訴訟と称し、その成否について学説、判例がわかれていることは周知のとおりである。(雄川一郎、行政争訟法一〇二頁)しかし、行政庁がある行政行為をなすべきこと又はなしてはならないことが、法律上き束されているときには、行政庁に右の義務があるということの判断の表示を確認判決の形で訴求することの可能性は否定し得ないので、裁判所がこのような確認判決をなすことは、行政、司法の分立の趣旨に当然に反するものでないとする学説、判例の方が有力である。(高根義三郎、行政訴訟の研究五頁以下、磯崎辰五郎、行政法総論三八七頁、同氏「裁判所の違法処分変更の判決」公法研究五号三八頁以下、山田準次郎、行政法、浅賀栄、行政訴訟の諸問題三〇頁以下、大西芳雄、行政事件訴訟の給付判決(立命館法学九号)、白石健三、公法上の義務確認訴訟について(公法研究一一号)同氏公法関係の特質と抗告訴訟の対象(岩松三郎裁判官還歴記念「訴訟と裁判」所収)。最高裁行政局はかかる確認訴訟の訴求を認むべしとする積極説の理論を一貫して表明している。行政裁判資料五号一一頁、同八号八二頁、同一二号一三頁、同一四号一一頁以下、行政訴訟年鑑(二五年度)一三頁。判例をみると作為義務の確認につき福島地裁昭和二九、一、二五行裁例集五巻一号一五〇頁、不作為義務の確定を目的とする確認訴訟につき東京地裁昭和三〇、五、二六例集六巻五号一一九三頁、横浜地裁昭和三〇、九、二三例集六巻九号二一九三頁、法律関係の事前の確定につき神戸地裁昭和三一、二、二六例集七巻一一号、二七九五頁、例外的に許容するものとして福島地裁昭和二八、三、一一例集四巻一〇号二四七七頁、進んで行政庁に不作為の給付判決を認めるものとして旭川地裁昭和二四、三、五判決月報一七号五三頁、札幌高裁昭和二四、一一、八判決月報一七号六三頁、田上教授すら公法上の義務確認を部分的に容認する立場をとつている。田上穰二、司法権に対する行政権の独立公法研究八号一〇六頁、行政権に対し、行為又は不行為を求める義務づけ訴訟については判例学説は消極説が大勢であるかに見られないではないが、義務確認訴訟については事情が異る。反対説は雄川一郎、行政争訟法一〇二頁以下)

日本国憲法及び行政法はアメリカ法制の影響のもとに成立している。したがつて行政救済については英米法系の司法国家の思想形式を採用しているのである。(鵜飼信成、アメリカの行政争訟制度、自治研究二四巻一二号)これに反し、旧帝国憲法はドイツ、フランス法系の行政国家の思想形式を採用していたことは周知のとおりである。ドイツ、フランスの伝統的公法理論を租述する我が国の公法学者の権威(田中、田上、柳瀬学説およびその亜流たる雄川説等)を盲信し得ない事由はこのためである。

ところでこの種の義務確認訴訟は、行政権に作為、不作為を命ずるのと同様の結果を有するものとして、行政権の地位を侵害し行政、司法分立の趣旨に反するとする否認論は果して正しいであろうか。また明確な理論的根拠をもつているのであろうか。行政庁に対し、具体的事件において法律的価値判断をなし公法上の積極、消極の義務を確認宣言することは、それが行政権の発動に影響を及す場合であつても、司法の作用であることに変りはないであろう。これは、行政行為が違法であつて、行政客体の権利が侵害せられた場合に、その具体的事実について適用せらるべき法の何たるかを明にし、法の適用のあることを宣言し、法を維持し実現する作用である。このことは、裁判作用の論理と法律関係の性質から由来する当然の帰結である。

さらに言うと、裁判所が本質的意味における司法権を行使することによつて行政権に抑制を加えることがあつても、憲法に予定する三権分立に反するものではない。また事後審査の原則に反するものではない。事後審査の建前も一般的な原則に過ぎず、例外なしに認める必要はないのであつて裁判所の判断によつて行政作用に影響を及す度合と、国民の利益の事前の救済の必要性とを対比して、事前救済の必要性が極めて顕著であり、行政庁が法律上一義的に或る行為をなすべく、また、なすべからざる義務が客観的に認められる場合即ち争の解決が法の解釈によつてきまる場合には、判決の結果が行政権の作用に影響を及す場合であつても、事前の救済として義務確認による請求を認めるべきである。裁判所が必要に応じて取消の判決以外の形成判決や給付判決をなしうることは、裁判所の当然の権能であつて、特にこれをなしうることを認めた規定を訴訟上必要とするものではない。民事裁判においても、確認、給付、形成の請求を認めた法の規定はないが、而も理論上当然のこととしてこれ等の判決がなされていることと同じである。これを要するに、消極的内容による抑制(行政処分の取消)のみは可能であるが積極的抑制(公法上の義務確認)は許されないとする根拠は理論上成立しない。一部の消極説(雄川、前掲一〇三頁)が裁判制度の歴史的背景という独断を持ち出すのはこのためである。このような独断は、行政権を媒介する政治権力の意思に優位性を保障することに利益を感じる現実社会の特定の価値観の反映たるにすぎないのである。

2 勤務関係における特別権力関係の思想

公法上の勤務関係に対してドイツ行政法の伝統的理論である特別権力関係の思想を無定見に導入する説が一般的である(公法学の通説、最高裁昭和三二、五、一〇、第二小廷判決も自信のない態度ではあるが明言する)。この見解に立つ向は、公法上の勤務関係における公務員と監督権者との間の職務上の紛争に訴訟の成立を認めることは、司法権の判断に行政権を全面的に服従せしめることであり、司法、行政の両権の分立上許されないとする観念に傾き易い。(田中二郎、行政争訟の理論等)

このような見解に対しては、前段に陳べたことがそのまま援用されると思うが、なお特別に検討してみる。特別権力関係は公法上の特定の目的のために必要な限度に於て、特定の者に包括的な支配権が与えられ、その限度において法治主義の原理が排除される関係であると一応は定義されている(田中二郎、行政法中巻一〇七頁)。

しかし、特別権力関係という法理が現在の実定公法のなかに基礎づけられた現実的要請を担つているか否かは多大の疑問がある。このためか、学説も、「その法的構成は未だその独自性を明らかにするに至つていないのであるが、ともあれ一応の一般権力関係のそれに対する原則的対立が認められている」とする程度である。(園部敏・公法上の特別権力関係一九頁)

特別権力の理論は、沿革的には軍隊、監獄の支配関係のなかに歴史的発生の基盤をもち、プロシヤ官僚制度の普遍的理論となつた。わが国に於ては、天皇大権下の旧官吏制度の中に絶対主義と無定量忠勤制の法理論的支柱となつて現在に及んだ。しかし、民主的公務員制が一応の体制を確立し、職能制と定量勤務、身分保障と勤労者権の保障を法制化した事情のもとでは、実効的根拠を失つている。加えて、国家観が行政優位制から法治主義に転換した今日では法思想的基盤すら存在しないのである。

公務員関係にも私企業の雇用関係にも従属的労働関係の実体は現存する。しかしこれを規制するのは、前近代的身分制の忠勤契約ではなくて労働契約(私的、公的)の法理であり、業務の運営は、職能的階層制に基く管理権の指揮によつて維持される。これは私的企業であると公共団体の機関であるとを問わず近代経営体の共通的特徴である。だとすれば、公法上の勤務関係にのみ特別権力による包括的支配権を必要とする思想的根拠はあり得ないとというべきである。(学説も特別権力関係の思想を取らないで公務員関係を説明するものが有力である。鵜飼信成「公務員法」浅井清「国家公務員法精義」佐藤功、鶴海良一郎、コンメンタール「公務員法」参照)。特に教育公務員の勤務関係には、免許法による専門職の制度が存し、とりわけ、教育の内容、方法に関する教育行政学上の「内的事項」と呼ばれる分野(教師の本務)には、法的拘束力のない指導、助言しか及ばないという体制からみて、一般公務員の場合と異り、職能的階層制すら存在せず、却つて、職務の独立制があるのである。したがつて、特別権力の観念は「教育」の事業に関する限り更に容れる余地がないのである。

ともあれ、特別権力関係の理論は、行政争訟のうえでは、結局、行政庁の自由裁量行為の限界として論ぜられている。しかし、自由裁量行為は、公務員関係の領域にのみつきるものではないし、判断の方向もほぼ確定しているとみてよい。一般的にいうと、行政権の行使が多義的な規定で定められ、行政機関の裁量を許している場合、すなわち、法律が行政機関に対し、ある範囲内で行為の選択の自由を認めている場合であつても、行政機関の行為は、完全に自由ではなく、そこには憲法上、条理上の制約が存在する。このような内的、外的な限界を超えるときは裁量の濫用、踰越となり、その有無は司法権の審査の対象となる。(通説、最高裁昭和二九、七、三〇民集八巻七号一四六三頁、同昭和三〇、六、二四民集九巻七号九三〇頁、東京地裁昭和二五、一一、一四行裁例集一巻一二号一七九一頁、宮崎地裁昭和二八、五、一一例集四巻五号一二〇七頁、神戸地裁昭和二九、三、二三例集五巻三号六八二頁、なお、拘置中の死刑囚がその処置に関し拘置所長を被告として行政訴訟を提起した事件につき、特別権力関係内の法律関係であつても、司法救済の途が保障されることを明言し、かつ公法上の義務確認の訴を認めた大阪地裁昭和三三、八、二〇判決、判例時報一五九号六頁以下参照)。

(七) 本件は司法的審査の対象となる。

三権分立は手段であつて、自己目的ではない。

「立法、司法、行政の三権は、立法は国会、司法は裁判所、行政は行政官庁が行使することによつて、即ち三権は三つの別々の機関によつて行使されているので、この機関の区別に応じて形式的に区別されている。しかし、機関の区別による形式的区別は三権の実質的区別と一致するものではない。行政権により基本権を侵害せられた私人は、裁判所に訴を提起して、裁判所により行政処分の事後審査を受けることが許されねばならない。行政権は裁判所の監督の下に立たなければならない。司法権が行政権の上にあつて、行政権を監督することこそ法治国の眼目である。かくして、始めて法治国は真の意味の法治国に、即ち司法国になる。かくして始めて人民の基本権が保護され、人民の基本権がある。」「三権分立は基本権のためのものであり従つてこれに従属する。基本権を離れてそれ自体とし意味のある制度ではない」のである。(高根義三郎行政訴訟の研究、三、四頁)

明治憲法下においては、裁判権には閉鎖的な限界があつた。しかし、現憲法の下においては、事情が全く異る。憲法は、特別裁判所の設置を認めず(憲法七六条二項)裁判所の系統を一つに体系化すると共に、裁判所法は、日本国憲法に特別の定めのある場合を除いて、司法裁判所が、「一切の法律上の争訟を裁判するものとする。(裁判所法三条一項)。すなわち裁判権の支配領域は開放的な無限定の性格をもち、「一切の法律上の争訟」が訴訟による裁判の客体となることを原則とする。本訴請求は、「法律上の争訟」事件である。原告はまた「裁判所において裁判を受ける権利」(憲法三二条)を奪われるいわれはない。

二 被告は「本件規則は被告秋田県教育委員会が市町村教育委員会において県費負担教職員の勤務成績の評定をなすに当りそのよるべき基準を定めたもので市町村教育委員会を対象とし、直接には原告等を対象とするものではないからこれが直に原告等に権利を与え義務を負わしめる等具体的効果を及ぼすことはない」と主張し被告の適格性を争うものの如くである。

(一) しかしながら、本件の秋田県教育委員会規則第六号によると勤務評定の種類及び実施の時期(第三条)および評定者等を確定し(第六条)、評定期間および評定の方法の決定は県教育長に委任している(第五条、第六条第二項)。ついで、県教育長は、右規則の運用方針および勤務評定書の様式を決定し、加えて記入および取扱上の注意を指示している。

こにれよると訴外市町村教育委員会が勤務評定を実施することになれば、特段の職務命令が発せられなくても、定期に評定をなすべき義務が具体的に発生していることになる。時宜に応じて評定書の提出命令が発せられるとしても、規則等の文理解釈からすればこれは評定義務の発生要件ではない。この点に於て、前記県教育長の決定事項は、市町村教育委員会の行政命令を代行している部分を含むものであつて、被告の計画権を逸脱していることは別に陳述する。

(二) 被告の当事者適格性は、被告が原告等に対する任命権および身分上の監督権を有し、且つ本件規則等の計画権者であつて、原告の本訴請求に反対の利害を有するのであるから、あらためて論議するまでもあるまい。

(請求原因)

一 評定義務の発生

被告が秋田県教育委員会規則第六号、秋田県市町村立学校職員の勤務成績の評定に関する規則(以下本件規則)を制定し、右規則による権限の委任に基き秋田県教育委員会教育長が規則の運用方針を定め、かつ、勤務評定書の様式および記入、取扱上の注意を決定し原告等に通達したこと、並びに各地方教育委員会が右規則等を実施したことにより、原告等は、所属学校の教諭、助教諭および講師の勤務成績について前記規則等の定めるところに従い勤務評定をなすべき職務上の義務を負うことになつた。

二 評定義務の内容

「教育長の定める勤務評定書の様式」中第二表、第三表および第四表による勤務評定をなすべき義務を負うこととなつたが、本訴に於いて争う部分は、別紙第二表により教諭および免許状を有する講師について、職務の状況(出勤の状況を除く)を「評定要素の観察内容表」に基き観察、評定し、総評し、特性、能力について参考事項を記入することについてである。

三 評定義務の不存在

(一) 規則及び教育長の定めた評定書の様式の無効

1 地方公務員法第四〇条および地方教育行政法第四六条は、教育公務員に関し違憲である。

右各法条は、教育権を保障せられた教育公務員に適用せられる限りに於いては、勤務評定の方式、内容をすべて教育行政権の自由な裁量に委ねたもので、憲法の法治主義の原則に違反するものであるから違憲無効である。

(1) 教育権(教育の自由)との関連(教育基本法前文、一条、二条、六条、十条、憲法二三条、同十二条、同一三条)

教育の自由(ないしは教育権)については、憲法二三条が「学問の自由は、これを保障する」とし、教育基本法第二条が教育の方針のなかに、特に「学問の自由を尊重し」と定めていること、および同法第一〇条一項が「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」と自律性を宣明し、同条第二項が「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行なわれなければならない」として教育行政の補助性を規定しているところから帰納する教師の基本的権利ないし自由である。なお、理論の構成の詳細は、鑑定意見をまつて明らかにする。

(2) 法治主義の原則

法治主義は、「国会は国の唯一の立法機関である」(憲法四一条)との議会の立法による法規創造力の原則を明記したことから由来する論理上当然の原則である。その根本の内容をなすものは、国家の作用のうち国民の権利、自由に関し新らしい規律を定めるものはすべて立法として議会が行うべきものとせられていることである。

この法治主義の実定法上の根拠は、憲法四一条、同九八条、同七三条六号、内閣法一一条、国家行政組織法一二条四項並びに地方公共団体の行政の執行が法律又は条例に基くことを要するとする地方自治法一四条二項、地方公務員に適用される根本基準は法律で定めるべきものとせられている憲法七三条四号、同九二条、地方公務員法一条によつて明らかである。

(3) 評定の目的及び方式と内容の基準を法律で明確に定めることの必要。(憲法三一条の要請、米国連邦最高裁判所のニユー・デイール・ケース)

これによつてみると、前記地方公務員法四〇条、地方教育行政法四六条は、教員の基本的権利を新に規律する勤務評定の目的、方式のすべてを行政権に白紙委任したものであるから、法治主義の原則に違反し、違憲無効であると解する。

2 評定計画権の濫用

本件勤務評定規則等を被告が立案制定した目的と動機および評定方法の内容、実施の結果予想せられる危険な影響を総合考察すると被告およびその委任に基く教育長の行政上の所為は地方教育行政の組織及び運営に関する法律第四六条に定める計画立案権の濫用である。

(1) 教育基本法と教育の自主性

第二次世界大戦におけるわが国の決定的敗北は、教育についても抜本的改革を余義なくされ、明治憲法下における教育の基本は根底からくつがえされるにいたつた。

この機運を促進したものは、国民および教師の間に起りつつあつた教育民主化の運動であり、かつ、連合国最高司令部の指令であつたことは、今日では公知の事実である。

昭和二一年三月ジヨージ・ロ・ストダートを団長とするアメリカ合衆国第一次教育使節団が連合国軍最高指令官の要請によつて来日し、最高司令部民間情報局および文部大臣の委嘱した日本側教育委員との協議、視察、調査を経て最高司令部に提出された三月三一日附の報告書は日本の教育の目的および内容、国語の改革、初等及び中等学校の教育行政、教育法と教師養成教育、成人教育、高等教育にふれて批判検討したものであつたが、教育行政が勅令主義のもとにおかれ文部官僚の意思によつて教育が完全に統制される教育体制について、「日本の教育制度は極端に中央集権化されたものであつた。この教育制度は、よしんば極端な軍国主義と国家主義とが注入されなかつたとしても、その組織と内容とにおいて、近代の教育理論にしたがつて、当然改革されなければならない」と述べている。

また、教育の目的および内容について「民主政治下の生活のための教育制度は、個人の価値と尊厳を認めることが基になるのであろう。それは各人の能力と適性に従つて、教育の機会を与えるように組織されるのであろう。教育の内容と方法によつて、それは研究の自由と批判的に分析する能力の訓練とを助成するであろう。それは異つた段階にある学生の能力の範囲内で、広く実際の知識の討論を行うことを勧めるであろう。学校の仕事が規定された学校課程と各科目毎に認定された一冊の教科書とに制限されていたのでは、これらの目的はとげられようがない。民主政治における教育の成功は、画一と標準化とを以てしては測られないのである。教育は、個人を社会の責任ある協力的成員たらしめるよう準備すべきである。………中央官庁は教授の内容や方法、または教科書を規定すべきでなく、この領域におけるその活動を、概要書、参考書、教授指導書等の出版に限定すべきであるということになる。教師がその専門の仕事に対して適当に準備ができさえすれば、教授の内容と方法に種々な環境にある彼等の生徒の必要と能力並びに彼等が将来参加すべき社会に適応せしめることは、教師の自由に委せらるべきである。」と報告しわが国の教育の進むべき大綱を示したのであつた。

さらに同報告書は、「人間のうちには、自由へ向う、また個人社会的成長へむかう測りしれない可能性が存在している」、「子どものもつ測りしれない資質は、自由の陽光の下においてのみ、豊かに結実する」という基本的観点から教育行政については、その法律主義、地方分権、民衆統制、一般行政からの独立の原則を提案し、教師の団体についてはつぎのようにいつている。「教師の最上の能力は、自由のふん囲気のなかにおいてのみ花咲く」。「教育行政は、教育、教師の自由を擁護するものであつて、決してその逆ではない」。「教師には公民のもつ一切の特権と機会とを与えるべきである。その任務を立派に果すためには、教師は、思想と言論と行動の自由をもたなくてはならない。また、かれ等は地位の保障と相当の給料を持たなくてはならない」。「青少年をよりよく理解してやり、教師自身の権利を増進するために、全国、都道府県、各市町村に、自主的な教員団体が結成されなければならない」そして、これらの教員団体は、「創意と熱意をもつて行動し、他の諸団体と協力するのに、何等の拘束をうけてはならない」と述べている。

この第一次米国教育使節団の報告書は後に成立した教育基本法の精神が立法の当時どのように認識せられていたかを示す貴重な資料である。言いかえると、基本法の論理的定着の側面にある価値観を客観的に明示している。

日本国憲法には、周知のように、教育の基本の進むべき方向を示す、法の下の平等、思想および良心の自由、信教の自由、集会、結社、表現の自由、学問の自由、両性の本質的平等その他基本的人権の保障が明記されたが、とくに教育については、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする」(憲法二六条)との新しい規定をおいた。

このような情勢のもとに、昭和二十一年九月、教育に関する重要事項を調査審議するため、内閣総理大臣所轄のもとに設置された教育刷新委員会がさきにアメリカ教育使節団と協議するために委嘱された日本側の委員を拡充して構成され、新らしい教育の理念を明らかにする教育基本法の要綱を作成、総理大臣に建議した。文部省はこの建議に基き政府案を作成、第九二回帝国議会の可決を経て、昭和二二年三月三一日法律第二五号として教育基本法は公布されたのである。(この経過については、青木書店「教育基本法」、“勝田守一教育基本法はどうしてできたか”、コンメンタール教育関係法有倉遼吉「教育基本法」参照)。

教育基本法は、ポツダム宣言にいうところの「非軍事化」「基本的人権確立」などの観点から前記米国教育使節団報告等に助言を得て、国家主義的な教育体制を否定し、憲法の精神に則つた教育の根本理念および方針を宣明した。

すなわち、右基本法は、「教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労の責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(一条)として、教育の目的を掲げ、ひろく国家および国際社会を含む社会の形成者としてふさわしい民主的な国民の育成を行うべきことを要請している。

そして、この教育の目的は、学校教育上においてだけでなく、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならないものとし、この目的を達成するために、具体的には「学問の自由」を尊重し、真理の探求と研究、教授の自由に対しては何らの拘束を加えてはならず、とくに初等教育に於いては、「実際生活に即し」て教育を行い、かつ、被教育者の「自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」(二条)ものとして新教育の方針を明示している。

このような法の原理に立つて、教育行政は、教育制度の民主化(六、三、三制、男女共学等)、教育行政組織の民主化(地方分権、教育委員会制等)および教育権の独立を制度化したものである。

教育基本法は、教育権の独立にふれて、「教育は、不当な支配に服することなく国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない」としている。

ここに「不当な支配」とは、まさしく教育基本法の前文および第一条(教育の目的)の明文に反することを教育に押しつけてくるものをすべて指称するものである。すなわち「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意」にもとづき、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」を抑圧するものは、抑圧の主体が何であれ、すべて不当な支配である。「国民全体に対し直接に責任を負う」ということと「不当な支配に服することがない」ということは、内容的に表裏一体をなすもので、教育者と国民との間に「教育」について何らの責任機関の介在を許さないということである。

第一〇条二項の「条件整備」については、当局者は、制定当時つぎのように理解していたことを銘記すべきであろう。「従来教育行政官は、教育が国民全体に対して責任を負うという自覚に欠け、独断的傾向が強かつた。」、「教育行政の特殊性からして、それは教育内容に介入すべきものではなく、教育の外にあつて、教育を守り育てるための諸条件を整えることにその目標を置くべきだというのである。」(文部省内教育法令研究会著「教育基本法の解説」昭和二二年、一三頁)

「教育が中央集権的行政制度とこれを支える官僚機構のうちに営まれていたところのわが国過去の憲法を省みるとき、教育行政が本来自由なるべき教育そのものにまで支配を及し、人間性の開発、人格の完成という教育本来の使命達成をゆがめ、やがては時の支配権力の恣意的支配導入の筋道となつていた。」「教育行政は、教育内容に介入すべきでなく、消極的には不当な支配の侵入を防ぎ、積極的には教育を守り育てるために諸条件を整備確立することを目標とすべきで、ここに教育行政の使命とその限界が明確にせられている」。(教育法令研究会著「教育委員会―理論と運営―」二三頁)。これは当初の立法者の意思をある程度忠実に表現していると考えてよい。

要するに教育基本法一〇条の思想は、民主主義教育の根底をなす一つの思想(イギリス、アメリカ)、すなわち教育行政に於いて内的事項と外的事項とにはつきり区別する思想を受けついでいる。すなわち、物的施設等の条件整備をなすことは外的事項であるとし、これに対して行政権力が及ぶのは当然とするのであるが、教育内容と方法とは内的事項であつて、これに対しては行政権力が介入するのは極力差し控えるべきだという思想である(宗像誠也「教師の研修の自主性の主張」国土社版「教育」一〇一号、兼子仁「教育行政の現代的課題」岩波版「思想」一九六〇年一月号)。

(2) 本件規則に基く勤務評定の内容

本件規則等は、教職員の職務遂行の基準とは異るところの視察内容と称する不確定な指標に基づき、教師の専権に属する教育および研究の実際を(イ)学級経営、(ロ)学習指導、(ハ)生活指導、(ニ)研究修養、(ホ)校務の処理等に分ち、学校職員単位数において五段階に成績を評定し、総評においてさらに五段階の成績の格付を行い、かくして得られた評定書は教職員に対する一切の人事行政の基礎資料に供せんとするものである。

然しながら、教師の理想像に基づく人間の育成という創造的、人格的な教育の実践は、かかる非合理的な観察方法によつて正しく認識されうるものではない。のみならず、かくして得られた第一次評定の結果を行政庁である地方教育委員会の教育長が調整し、(教育長は教育の専門家であることを制度的に保障されていない)、最終的には分限の権限を有する県教育委員会がこれを運用するものである。

これは従来の人事考課(教職員の進退、上級免許状取得についての校長の意見具進や地教委の県教委に対する内申)とは異り、すべての職員を職場単位に恒常的に格付するものであるうえ、「勤務評定の結果は秘密の事項」として取扱われ、被評定者に異議申立その他不当な評定に対する行政上の救済の道もなく、被告県教委が自由に「評定の結果に応じた措置を講じ」得る地位(地公法四〇条一項)を併せ考えると、制度的に強い拘束力をもつことは当然である。

(3) 被告の権限濫用事由

イ 本件勤務評定の社会的性格と事実上の効果

第一に、教師、父母の自主的評価や相互批判として行われるのではなく、一般私企業における使用者と労働者の従属関係を類推して、教育委員会、校長を上司とし、校長、教師を下司とみたてて、給与の決定、人事異動、研修などの人事管理上の基礎資料をつくるという目的で、上司である教委、校長が下司である教師の勤務成績を評定するという立場に立ち、教育運営に管理の機能の差別を導く。

第二に、勤務評定は、国家権力によつて計画的に設定される教育の国家的基準とその結果標準化される教師の仕事に対する一人びとりの教師の適応順応度を強める機能を果す。それは評定の実施権者である地方教育委員会が公選から任命に変つてからその自主性を喪失し、文部省、県教育委員会の政治的要求に順応した行政を行つている最近の教育行政の実際から推論できる。

第三に、現実の教育条件の不備を捨象して観念的に教育の遂行を設定し教師の仕事を画一的に標準化する見地に立つている。

第四に、以上の特徴との関連において、各学校における校長の管理権と、学校運営における職制をつよめ、学校運営の自治、教師のつながりを絶ちきるものである。

これによつてみると、本件規則等を実施することは、いきおい教育行政機関の政策的要求に適応順応するように教師の在り方や教育の方法、内容にまで不当な影響を及すおそれがあることは、多言を要するまでもない。

そうだとすると、原告等が本件規則等により評定義務を課されることは、教育者として「良心の自由」(憲法一九条)と侵害されることとなり、他面において、この義務を遂行するならば被評定者たる教員の「学問の自由」(憲法二三条、基本法二条)及び「身分の尊重」に関する保障を侵害し、教育の自主性(教育権、内的事項)に対する行政権の「不当な支配」(基本法一〇条)を導くおそれがある。このことは、思想、良心の自由、学問の自由などの基本的人権は教育の中では一層尊重すべしとの近代社会の根本原理に背反し、教師の内奥の価値観に対する権力的統制を意味するものである。(前掲、宗像、兼子論文参照)

この萌しは、教科書検定制度の強化、教育課程に関する国家基準の強化と内容の変質傾向が評勤制度と共に推進せられている文教政策の現状の中に、容易に看取することができる。

ロ 制定行為の動機の違法性

被告の制定行為の実質的動機と目的は、教育の自主性、民主化の原理、教職員の勤労者としての団結権を侵害せんとする政策に基くものであつて、違憲、違法である。

(一般的事情)

最近十年間の文教政策の歴史は、外部からは米国政府の強い圧力により、内部においては、帝国主義の復活を求める軍国主義者の圧力により、憲法改悪、核武装再軍備へと国民を誘導するための教育の推進の歴史である。再軍備に対して最も障害となるものは、憲法であり、更にこの憲法を支える国民の思想である。さらに青少年の教育を司る教育行政機構が、教育基本法と旧教育委員会法(現在は地方教育行政法)に見られるように地方分権的であつて、中央政府の方針が徹底し難いこと、教育者が地方公務員として、各地方公共団体に身分を有すること、またその大部分を以て構成されている日本教職員組合がその結成いらいの綱領に基き、民主、平和の教育の発展に寄与し、保守反動化の傾向に強く反対していることが、右の文教政策に大きな防壁となつている。このため政府と自由民主党に代表されるこの国の保守反動的支配層は、教育行政機構を中央集権化し、教員の身分とその政治活動および組合活動を強く束縛し、日教組を解体分裂させ、組織を弱めることに文教政策の努力の大部分を費してきた。

いま全国的に問題となつている勤務評定は、表面上の説明はともかくとして、その本質はこのような文教政策の手段であることは、この十年間の政策の歴史を概観することによつて余りにも明白である。

いま試みに新聞紙上に報道された事実の系譜を略記してもつぎのようになる。

二四・一〇・一  中華人民共和国の成立

二四・一〇・四  教職レツド・パージ

二五・六・二五  朝鮮戦争、対日政策の転換(この年、天野文部大臣「道徳教育手引要綱」発表)

二六・九・八   安保条約成立

二七・七・四   破防法成立

二七・一〇・一五 警察予備隊創設

二八・九・    池田、ロバートソン会談

二九・二・    教員の思想調査全国各地に頻発

二九・五・    京都市旭丘中学校の運営に官憲介入(旭丘中学事件)

二九・六・三   教育二法(教育公務員特例法改正、教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法)

二九・七・一   自衛隊法成立

三一・六・三〇  地方教育行政法(教育委員会公選から任命制へ)

三二・八・    自由党文教問題対策委員会、日教組対策決定(職制強化、道徳教育、学習指導要領、勤務評定実施)

三二・一一・   愛媛県に於いて勤務評定の紛争

三二・一二・   勤務評定に関する全国教育長協議会案成立

三三・一〇・一  小中学校学習指導要領を官報に告示、学校教育法施行規則二四条等を改訂し、独立教科として「道徳」教育特設

(特殊的事情)

(イ) 秋田県人委員会は、昭和二七年七月一五日地方公務員法四〇条二項に基いて同県公務員一般の勤務評定に関する計画に「勤務成績評定制度案の要綱」により実施することを適当と認める旨の勧告(秋人委発八三号)を各任命権者である知事、県議会議長、教育委員会に対して行つている。

右要綱によると教育公務員は適用を除外する職種に含まれている。ところで、六年後の今日に至るも教育委員会を除く各任命権者は行政公務員一般について未だ勤務評定を実施してはいない。

地方公務員一般に職階制、勤務評定が実施せられていないのは、全国各県の実状である。これは公務員一般の事務が錯雑しているため職階制による職の分類、整理を著しく困難にしていること、職階制を前提としない勤務評定の実施は、実施上の困難を伴い、行政上の実効もないためであると考えられる。

(ロ) 勤務評定の実施は、本来「地方公共団体の行政の民主的且つ能率的運営を保障することによつて地方自治の本旨の実現を期するものである」(地公法一条)から、その実施が憲法に明示している地方自治の本旨に沿うて行われなければならないことは当然である。そのため各都道府県人事委員会が勤評実施の過程において行う調査研究(地公法八条一項)それにもとづく資料の提供(同条一項二号)や総合的企画(同条同項八号)及び勧告(同法四十条二項)の権利は十分に尊重されなければならない。にも拘らず、現実の勤評実施の過程においては、文部省当局が指導助言(地方教育行政法四八条一項)に名をかりて画一的に勤評の実施を意図しその意図を体して各都道府県教育委員会が勤評の実施を一方的に押しすすめていることは公知の事実である。

昭和三十二年十月二十四日文部省の指導にもとづく全国教育長協議会は教職員に対する勤評実施を決議し、十二月全国教育長協議会は勤務評定の全国試案を発表した。

秋田県教育委員会はこの試案に殆んど準拠して昭和三十三年四月三十日には県規則を決定し、五月二十二日評定書、観察内容を決定した。この間、地方教育委員会、校長会等の意見を徴する手続を形式的にとつてはいるが、実施を前提とした意見の調整と案文の体裁、技術的配慮に限られ、現実の教育実践との関連においての方法、内容の具体的な調査、研究は完全に看却され、現場教師のため唯一の職員団体である秋田県教職員組合との協議はことさらに回避されたのである。

ハ 方法の非合理性と要件の欠如

本件規則に基く評定方法は、心理学、教育学、行政学等の学問的見地から考察して科学的合理性を有しない。また、勤務評定が具備すべき必要条件については、準用すべき根拠として、地方公務員法第二四条五項が「職員の………勤務条件を定めるに当つては、国及び他の地方公共団体の職員との間に権衡を失しないように適当な考慮が払われなければならない」とし、国家公務員に対する人事院規則「勤務評定」(昭和二七・四・一九、人規一〇―二)の第二条一項に「勤務評定は、職員が割り当てられた職務と責任を遂行した実績を当該官職の職務遂行の基準に照らして評定し、並びに執務に関連して見られた職員の性格、能力及び適性を公正に示すべきものでなければならない」とする。また第二項は「勤務評定は、あらかじめ試験的な実施その他の調査を行つて、評定の結果に識別力、信頼性及び妥当性があり、且つ、容易に実施できるものであることを確かめたものでなければならない」とするものであるが、本件規則に基く評定は右の必要条件を具備していないものである。

ニ 計画権の範囲逸脱

被告県教育委員会に評定計画権を認めた趣旨は、評定方法の県内における統一を期することにあつて、ここに市町村委員会の地方自治の本旨に基く評定実施権との調整が図られている。したがつて、同法同条の計画とは、同法第四十三条に規定された市町村委員会に対する一般的指示の範囲に限られるべきものであり、本件規則の如く評定実施の時期、県教育長の右変更権、評定者の特定市町村委員会の県教育委員会に対する報告義務、評定書の効力及び期間、県教育長の評定書の作成権の如きを詳細具体的に定めること、また、県教育長が地方教育委員会及び評定者たる学校長に対し具体的実施方法を指示し、実施権者たる地教委の裁量の余地を残さず実施権者の行政命令を代行する如きは、明らかに計画権の範囲を逸脱し、実施権者の権限を侵すものである。同時に、このことは、地方自治の本旨(憲法第九二条)に反することも明白である。

本件規則および教育長の決定を人事院規則「勤務評定」(人規一〇―二)に対比すると、その権限としての計画の範囲を超えていることは明白である。すなわち、右人事院規則は、国家公務員に対する公正な実施を保障する見地から評定が具備すべき必要条件、手続、取扱い、活用方法を定めているのであるが本件規則等の如く、実施の時期、評定書の特定、評定方法の決定に対応する定めはない。

地方教育行政法四六条は地方公務員法四〇条一項に対する特例にすぎないのであるから、被告は県人事委員会の総合的企画(地公法八条一項)および勧告(同法四〇条二項)を待つて、これを十分に尊重し、またはその協力を得て計画の大綱を定め、具体的実施方法および活用については、あくまでこれを地方教育委員会の実施権に委ね、これを指導助言しうるに止まると解するのが相当である。

ホ 比例原則違反

本件規則等の実施によつて、客観的な公正に保障されない評定結果が、公式の記録とせられ、教育公務員の昇給、昇格、人事配置等人事管理の資料に供されるのであるから、いきおい教師のあり方、教官そのものにつき行政権力の不当な支配をもたらす危険がある。

そこで、学問の自由(憲法二三条、基本法二条)教師の身分の尊重(基本法六条)および教育権の独立(基本法十条)という憲法並びに教育基本法を一貫する保障的諸権利と被告が期待したと仮定した場合の何らかの人事行政上の効果との権衡が検討されなければならない。原告等は、この点について、被告の措置は明らかに公益のために必要とされる程度を超える誤つた手段の濫用でありいわゆる比例の原則に反すると考えるものである。

なお、米国連邦最高裁判所の自由権の分野における違憲審査の基準をみると、権利を制限した法律を合憲とするには、経済関係法律等を合憲とする基準である目的と制限との間の合理的関係、すなわち法律の目的が正当であり、それを達成する手段が目的に対して合理的関係にあることでは充分でなく、明白かつ現在の危険によつて脅威された明確な公益によつて正当化されなければならないとされている。

(二) 仮に以上の主張に理由がないとしても原告等の義務の発生を妨げる事由がある。

1 事実上の不能

勤務成績の評定は、職員が割り当られた職務と責任を遂行した実績を、当該官職の職務遂行の基準に照らして評定するものとされており(前掲人事院規則第二条)学説上も定則とされているが、教育の職務は、人間の形成を目的とする独自の仕事であつて、職務遂行の基準の確立に必要な職務内容の分析を不可能ないしは著しく困難とするものであり、事実上こんにちに至るまで「基準」は制度的に存在しない。

加えて現実の教育条件は、学校施設、児童生徒の就学条件の平準化の保障を欠き教諭の本務外事務が雑多に存在する等職務の体制を明確にする準備を欠いている。すなわち、秋田県における学校教育の実情は、教員の「児童の教育を掌る」という職務とは到底見なし得ない雑務的な仕事を多量にすることをやむなくされており、また中学校等においては、配当教員が少いため、免許状をもつていない教科までも受けもつことを強いられ、多くの教員は免許法からいつて正常でない授業を行つている。また教員の実勤務時間は職員の勤務時間に関する条例(秋田県条例第六〇号)および職員の勤務時間に関する規則(県人事委員会規則八―〇)第二条の一週四十四時間を超過して、平均五十時間にわたつており、教員は著しく過重な勤務を負わされている。しかも、小、中学校における一学級の児童生徒数は、学校教育法施行規則二〇条五五条の規定する一学級五十人の基準をこえる過大学級が町部の学校に多数存在し、教師の学習指導を困難ならしめている。

「職務遂行の基準」は評定者が職場慣行のなかでおのずから認定しうるという如き不確定なものであつてはならないしその様なものは、「基準」ではあり得ないのである。結局、教員の職務内容の分析にもとづく職務遂行基準を有しない勤務成績の評定は評定者と調整者の恣意を許すものでない限り事実上不能というべきである。

なお、原告等は教職員の担任する各種教科について、教育職員免許法第四条の各種免許状のすべてを有するものでないこと、勤務成績の評定の前提要件である職務の分類整理は、職階制によつて別個に行うのが公務員法一般の原則とされているのであるが(国公法二九条、地公法二三条、地方教育行政法四四条)、教育公務員については、未だに職階制は実施されていないこと、等をも併せて考えなければならない。

2 法律上の不能

教職員は、行政権から独立して「教育を掌る」(学校教育法二八条)ことを本務とし、教育実践および研修は教職員の職務上の独立の範囲に属する事項である。

ところで、本件規則等に定める原告等の職務の執行は、教員の勤務成績の評定に名を藉るが、既に陳述したとおり価値評価の客観性を保障し難く、しかも拘束力ある観察制度の日常的運用であるから、教職員の右独立の範囲たる教育を侵害することとなり、法律上不能というべきである。

第二被告の主張

(本案前の抗弁)

一(一) 原告等は、いずれも、被告から一の教育行政機関たる校長として任命されたものである。

一般に、行政機関は、法律に特別の規定がない限り、みずから原告となつて訴訟を提起することは許されないものであるところ原告等校長についても、なんら特別な規定は存在しないのであるから、本件訴は不適法である。

(二) 原告等が教育行政機関であることは、前述したとおりであるが、被告もまた、地方教育行政法に基ずき設置された教育行政機関であり、原告等と被告の関係は、行政機関相互の関係である。

しかして、わが国の現在の法制のもとにおいて、行政機関相互の関係について、裁判所の審判を求めることは、これまた法律に特別な規定がない限り許されないものであるところ、現在、被告と原告等間の関係を対象とする訴訟を容認するような規定は存在しないのであるから、かかる関係を対象とする本件訴は不適法である。

(三) 校長の職務権限と本件勤務評定の権限

学校教育法第二十八条の「校長は、校務を掌り、所属職員を監督する。」という規定は、学校という組織体の長としての校長の職務を概括的に規定したものであるが、右規定の趣旨によると、校長は、所属教職員に対し、職務上の上司として、職務上の監督権を有することが明らかであり、また、「校務」には、広義におる人事管理権を含むものと解すべきであるから、所属教職員の服務状態を把握し、その勤務成績を評定することは、当然校長の職務権限に属するものというべきである。

しかして、本件規則第六条は教職員に対する監督者のうち、教育行政組織上適当と認められる地位にある者を指定して、その者をして本件勤務評定をさせようとするものであり、さらに、右規定に基ずき、各校長に対し、市町村教育委員会の職務命令が発せられてはじめて、本件勤務評定権限が具体化するものである。

二 本件について、被告は、当事者適格を有しない。すなわち、本件訴訟について、被告たる当事者適格を有するものは、一般の例にしたがい、いわゆる処分庁またはこれに準すべき地位にある各市町村教育委員会である。けだし、本件規則は、被告県教育委員会が、市町村教育委員会において勤務評定を実施するに当り、そのよるべき基準を定めたにすぎず、市町村教育委員会を対象とし、直接原告等を対象とするものではない。本件勤務評定を実施したのは、市町村教育委員会であり、これにより原告等に本件勤務評定をなすべき義務が発生したからである。

(請求原因に対する答弁)

一 原告等主張の一の事実のうち、本件規則竝びに本件規則による権限の委任に基ずき県教育長の定めたところを、原告等に通達したとの点は否認する。その他の点は認める。

二 原告等主張の二の事実のうち、評定義務の内容として述べるところは認める。

三(一) 原告等主張の三、(一)の事実につき、

1 「地方公務員法第四十条及び地方教育行政法第四十六条は、教育公務員に関し、違憲である。」という点は、理由がない。

2 「本件規則等を被告が立案制定した動機と目的、評定方法の内容、実施の結果予想される危険な影響を綜合考察すると被告及びその委任に基ずく県教育長の行政上の所為は、地方教育行政法第四十六条に定める計画立案権の濫用である。」という点もまた理由がない。

(2) (2)の末段の、被評定者に、異議申立その他評定に対する救済の途のないことは認める。

(3) (3)、イにおいて、原告等は、本件規則等の実施が、評定者たる原告等の教育者としての良心の自由(憲法第十九条)を侵し、被評定者たる教員の学問の自由(憲法第二十三条、教育基本法第二条)及び「身分の尊重」に関する保障(教育基本法第六条)を侵害し、教育に対する行政権の「不当な支配」(同法第十条)を招くおそれがあるというけれども、右主張は、なんら理由がない。けだし、本件規則等に基ずく公正な勤務評定の成果を、教職員に対する人事管理の基礎資料として利用するときは、公正妥当な人事管理を期待することができ、教師のあり方や教育の方法、内容そのものに対しても好影響を与えうるはずであるからである。

(3)、ロの冒頭において、「被告の制定行為の実質的動機と目的は、教育の自主性、民主化の原理、教職員の勤労者としての団結権を侵害せんとする政策に基ずくものである。」という点は、原告等の曲解によるものでなければ、誤解によるものである。

(3)、ロ、(イ)のうち、秋田県人事委員会が、教育公務員を除外して秋田県公務員一般につき、勤務評定を実施すべく勧告したこと、右につき、いまだ勤務評定が実施されていないことは、いずれもこれを認める。

(3)、ハにおいて、本件規則に基ずく評定方法が、「心理学、教育学、行政学等の学問的見地から考察して、科学的合理性を有しない。」というのは、理由がない。

(3)、ハのうち、本件規則等による勤務評定につき、あらかじめ試験的な実施その他の調査を行つて、評定の結果等について確認をしていないことは認める。

(3)、ニにおいて、原告等が、地方教育行政法第四十六条にいわゆる「計画」とは、同法第四十三条第四項にいわゆる市町村教育委員会に対する「一般的指示」の範囲に限られるべきものであるというのは、理由がない。

また、本件規則竝びに県教育長の定めた勤務評定書の様式等が、前記「計画」権の範囲を逸脱し、市町村教育委員会の「実施」権を侵し、地方自治の本旨(憲法第九十二条)に反するという点も理由がない。

(3)、ホについては、(3)、イの答弁において述べたところを援用する。

(二) 原告等主張の三、(二)の事実につき

1 本件規則竝びに県教育長の定める勤務評定書の様式に基ずく評定が事実上不能であるという点は、理由がない。

本件勤務評定は、教職員の職務内容を、学級経営、学習指導、生活指導、研究修養、校務の処理などの評定要素に分析し、さらにその分析されたものについて、具体的な観点を示して評定に客観性、合理性をもたせるように工夫されているから、校長その他の評定権者は、容易に評定をなすことができる。したがつてまた、その評定は、評定権者の恣意を排して、公正妥当な結果を得ることが期待できるはずである。

また、本件勤務評定は、各教職員の、または各教科の専門的教育技術の巧拙等を判定しようとするものではなく、各教職員の勤務状態をその対象とするものであるから、評定権者が各教科の免許状を有する必要はない。

また、勤務評定は、教職員の勤務状態を評定記録することであるから、教職員に職階制が実施されていなくとも、右評定は事実上可能である。現に職階制のない国立学校教職員の勤務評定が実施されていることに照らしても、それが事実上可能であることは明白である。

2 すでに述べたとおり、本件勤務評定は、教職員の勤務成績を評定記録するものであるから、教職員の教育実践を阻害したり侵害したりするようなことはない。

教育長の定める勤務評定書の様式

第二表 教員勤務評定書<省略>

評定要素の観察内容表 (教諭、助教諭、講師)

職務の状況

評定要素

観察内容

(イ)学級経営(ホーム・ルーム)

1. 学級(ホーム・ルーム)経営は学校経営の方針に即しているか。

2. 学級(ホーム・ルーム)は集団としてよく親和し、秩序がよく保たれているか。

3. 学級(ホーム・ルーム)内における児童生徒の統制を教育的に配慮しているか。

4. 児童生徒をよく理解し、掌握しているか。

5. 教室における備品、教材教具、児童生徒の作品等の整備がよくなされているか

6. 清潔、採光、換気、保温等保健上の配慮が行きとどいているか。

7. 他の学級(ホーム・ルーム)との協調に努めているか。

(ロ)学習指導

1. 学校の指導計画が適切に実施されるようにくふうしているか。

2. 日々の指導に当つて教材研究その他の準備をよく行つているか。

3. 指導内容は正確適切であるか。

4. 児童生徒全体をよく理解し、掌握して、その実態に即した指導を行つているか

5. 評価が適正に行われ、その結果を有効に生かしているか。

6. 教科書その他の教材の活用を効果的に行つているか。

7. 家庭における学習についての指導が適切であるか。

(ハ)生活指導

1. 生活指導について具体的な計画を立てているか。

2. 生活指導、道徳教育を熱意をもつて行つているか。

3. 個々の児童生徒の性格、境遇、希望、悩み等を理解し、愛情をもつて指導を適切に行つているか。

4. 個々の児童生徒の健康や安全の指導にじゆうぶん配慮しているか。

5. 問題児の早期発見や指導に配慮しているか。

6. 児童会、生徒会、ホーム・ルーム、クラブ活動や、儀式行事等における指導を適切に行つているか。

7. 評価が適正に行われ、その結果を有効に生かしているか。

8. 校外における生活指導が適切になされているか。

9. 生徒の進路指導を適切に行つているか。

10. 家庭との連絡をよくとつているか。

(ニ)研究修養

1. 教師として広い立場からの研究修養に努めているか。

2. 教育上必要な研究を熱心に行つているか。

3. 研究の結果を指導の上によく生かしているか。

4. 指導計画をたえず改善するよう研究がなされているか。

(ホ)校務の処理

1. 分掌した校務を計画的、積極的に処理しているか。

2. 仕事の処理は正確であるか。

3. 仕事の報告は迅速適確に行つているか。

4. 諸表簿は正確に記録され、書類、資料、物品等の整理整とんはなされているか。

5. 規律に従つて仕事をし、秘密を守つているか。

6. 同僚との連絡をよくとつているか。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例